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コラム
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学校は社会を映し出す鏡なり
全国各地の高校で、「必修逃れ」が相次いでいる。発端は富山の1つの高校だったが、まるで竹の子のように、次から次に明るみに出てきている。今やその数は500校にのぼる。学校によっては、どれだけ補習を行っても、卒業まで間に合わないらしい。生徒たちは紛れもなく被害者であり、「気の毒」の一言だけでは片付けられない。責任のない学生たちに特段の措置を施すことが、何よりも求められよう▲多くの高校では、週5日制による学力低下に危機感を抱いた結果だ、という。詭弁に聞こえなくもないが、まんざら嘘でもあるまい。だが、「必修逃れ」だけでなく、教育委員会に「虚偽の報告」を行った高校も多い。それならば、二重の罪を犯したことになる。人間として正直であれ―かつての熱血教師たちは、まずは人間教育を何よりも重んじたが、そのような教師は、もはや天然記念物に近いようだ▲しかし、一連の「必修逃れ」に日本社会の大きな問題が垣間見られる。競争を勝ち抜くためならば、ルールを無視してもいい、といった風潮だ。ホリエモンや村上ファンド、日銀の福井総裁らは、金儲けのためにはルールやモラルを二の次だと考えた。耐震構造偽装事件も、根っこは同じである。社会の悪しき風潮の縮図が、教育の現場にも、もたらされているわけだ。「必修逃れ」は教育の問題というよりも、むしろ社会そのものの問題なのである▲ちょうど今、教育基本法改正の議論が始まった。政府には教育再生会議という名の不思議な会議も発足した。教育問題の議論は、是非とも必要だ。だが、子どもたちや青少年たちが鑑とする大人の社会には、ペテンとごまかし、拝金主義とご都合主義が蔓延している。小中学校におけるイジメも、格差社会と無関係ではない。だから、教育の現場にばかり責任を求めても、所詮は「その場しのぎ」で終わる。むしろ、大人が襟を正して「良き市民」になる、そして社会にルールとモラルを取り戻してこそ、学校も青少年も、真に健全化されるのではないか。
(平成18年11月1日)
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